気楽にどうぞ

TikTokで時間を食いつぶしていたある日、ビビッと来る投稿に出逢った。

 それは北野武の名言を紹介しているものだった。内容は、アウトレイジの記者会見をしている時に一人の記者が「あなたはヤクザ映画ばかり撮りますが社会への悪影響は考えていないのですか?」と質問した。北野武は「ではなんで世間はお涙頂戴の映画ばかりなのに一向に良くならないんだい?」と返したそうだ。私はこれを聞いた時何かが繋がった感覚があった。その感覚を探っていくと私が抱えていた疑問の落としどころを見つけた瞬間だからであった。

 

 それは広島広陵高校のいじめ事件に関する事だ。この事件において加害者の子の顔写真がネットで特定され総叩きにあっていたことに私はナメクジを素足で踏んだような気持ち悪さを心に感じた。百歩譲って子どもが叩いているのであればまだ受容の余地はあるが、明らかな大人もそれに参戦していた。そもそも大人と子どもは脳の成長具合がフェアではない。少し詳しく説明すると、脳の前頭前野(理性・判断・コントロール)は25歳前後までに緩やかに完成すると言われている。逆に偏桃体(感情、衝動性)は10代で急速に成長する。つまり中高生はアクセル(感情)は全開だがブレーキ(理性)はまだ育ち切っていないということだ。そのため失敗をすることは当然だし、理性がまだ育っていない分失敗をすることで学習し感情や衝動を抑える為の枷になる記憶を作ることも大事なのではと思う時がある。もちろんいじめをプラスの失敗だと捉えているわけではない。そこは程度の話なので感じ取ってほしい。

 にもかかわらず、子どもと悪い意味で同じ土俵に立ち叩いたり晒したりする大人がこの世には存在する。この人たちの今はどのようにして誕生したのか。色々な考えがあると思うが、『失敗しない為の技術で溢れ返っている世の中』も一つの要因なのではないかと感じる。もちろんその技術は多くの人を救って来たと思う。だが同時に、技術を教えることの割合が大きすぎて感性を育てることに手が届かない事があるのではないかと感じる。高校生を叩いている大人たちはまさにその象徴なのかなとおもってしまう。そもそも失敗という概念ややその為の技術も社会の枠組みにはめ込むために存在しているものである。そのため中高生時代に技術の上達ばかり求められていた人たちは社会からずれている行動をした人間を、子どもであっても容赦なく叩くことしかできない。なぜなら感性が育っていないから。失敗をした子たちの心のもしかしたらを想像する事や、子どもだからな~と受容したうえでどのようにその子と関わっていくかを考えるという選択肢が乏しいのではないかと感じる。その人たちが良い悪いという話をしているわけではない。技術ばかりを求めることの結果なのかなという一つの持論である。

 北野武の言葉はまさしくこれに近しい事を言っているのだろうと私は解釈している。皆が平和になるために感動映画ばかりにしたところで社会が良くなるとは限らない。将来幸せに過ごせるようにと失敗しないための技術を教え続けても逆に価値観に縛られて苦しむかも知れない。

 

 私は育海で働き始め、いつの間にか「いい意味で諦めること」を大事にする自分に気が付いた。恐らく、人間の怒り、悲しみ、焦り、プライドに多く遭遇する機会がある育海と私の性格を掛け合わせたときにそれを大事にしないとやっていけなかったのだと思う。具体的には、ヒューマンエラーや人間同士のトラブルが起きないことを諦める、ということ。考えてみれば、人間はこれまで何回も戦争をしている。国民の命を最優先に考えなくてはいけない国の代表たちでも戦争をするのだ。一般市民が職場や学校でいざこざがあってもなんら不思議ではないと思う。人間が社会を作っていくためには、必然の出来事だと思い自然な流れだと身をまかせ、「まぁそういうこともあるか~」と受け止め、冷静に原因を探り、解決策を考えれば十分じゃないかと私は思う。そして諦めることで良い意味で人への興味もなくなり、気楽に過ごせるようになった。だからこそヒューマンエラーをなくそうと先回りして動き過ぎたり、人の行動に一回一回感情を爆発させる人を見ると、飛んで火にいる夏の虫という言葉を重ねてしまう。嫌なことほどその当事者から一度降りて俯瞰して状況を見つめることが大事だと思う。戦えば戦うほど自分の嫌な気持ちに染まり続け抜けられなくなっていくのにと思ってしまう。

 

 このように私が良い意味で諦めることを大事にできるようになったのは、やはり土台にやまほど失敗をしてきた経験があるからだと思う。そしてその時に運よく笑ってくれる大人や新しい価値観を教えてくれる大人がいてくれたからだ。一つくだらないがこの話題にぴったりのエピソードがある。

 

中学生の時に日直当番で黒板けしをしていた。いきなりただ純粋にやってみたい衝動にかられた私は黒板けしを縦向き横向きと交互に動かして消すことで黒板をドット柄にした。私としては友達とのおしゃべりをすてて挑んだ最高傑作であり、言い表せない達成感と自信に満ちていた。次の授業が生徒指導の先生が担当する保険体育であることも忘れて。チャイムが鳴り先生が入ってきた。と同時に怒鳴られた。入って直ぐ反応できるぐらい生徒の行動にアンテナを貼っていることにまず驚いたが、私は無事職員室に連れられて行き雑巾がけの刑に処された。確かに今から授業するのにドット柄にされたらやりずらいよなと反省することが出来た。だがそれと同時にどこか自由にやりたいことを出来ない閉塞感も感じて息苦しかった。そんな時仲が良かった美術の先生が、とぼとぼ廊下を歩く私に声をかけてくれた。この人にも怒られるのかなと思って怖くなった。その怖さは今思えば居場所がなくなる恐怖を感じていたのかも知れない。しかし面白がりながらその先生は私の発想を褒めてくれたのだ。凄く嬉しかった。その行動をしたら怒られるのは当たり前という価値観の空間に適応しきれなかった私にとって光が掴めたように感じた。もちろん怒ってくれた先生にも今は感謝している。一つの出来事で二つの感性を得られた私は幸運だと思う。

このような経験を繰り返したおかげで私は色んな感性に触れ、価値観の幅を広げて行くことができ、今現在子ども達に対してなんとか大人をやれていると思っている。私のようになってほしいなんてことは一切思ってないので一つの経験談としてラフに受け取ってほしい。

 

 

 子どもの失敗を恐れすぎてしまう人たちは逆に価値観に縛り付けるリスクもあることや、感性を育てる機会を損なう可能性もあることを頭の片隅に入れておくこともいいのではないかなと思う。愛ゆえなのがまた難しいところだが。沢山失敗してきた私でも今一応社会人として働けており、もりもりご飯を食べられていてもうすぐ100キロに到達します。税金は高すぎて困るけど、何とか幸せに生きています。         

野﨑 陽平