「同時に車に引かれそうになったら、あんたを捨てて私は先に逃げるからね。私は私が一番大事なんやから当たり前たい」。 幼い頃、聞いてもいないのに母がよく言っていた言葉だ。この言葉が価値観として染みる前の私は、「なんでお母さんはわざわざこんなこと言うんやろう」と、よくある“優しいお母さん”のイメージに私が囚われていて、どう受け取ればいいのか分からなかった。
私は現在この仕事をしていて、子どもへ周りの人間から与えられる言動に対して過敏に反応しガーディアンとして目を光らせ警護している人をよく見かける。保護者だと不登校に初期の辛そうな子どもの姿をみた記憶から、メンタルブレイクに対して敏感になっていたり、教育者だと自分自身のトラウマの琴線に触れたりすることが根本にあるのだと思う。これは良い悪いとかの話ではない。保護者は愛情が由来だし、トラウマはなかなか消えるものではなく本人が闘っている事の結果だからだ。そもそもこの言動に過敏な状態になっていなくても、基本どんな人でも悩みながら子どもと向き合っている。むしろ健全であり、その悩みや違和感から子どもは人という動物について学んでいくのかも知れない。ただそれと同時に、この人たちはいつから子どもを自己責任の世界に手放していくのだろうと思う時がある。私が知る限り大人でわざわざ自分のコミュニティで言われた嫌な事を、別のコミュニティの人に助けを求めて解決してもらおうとしている人をあまり知らない。例えば会社であったことを親に話して親から会社に言ってもらおうとするようなことだ。友達や家族に悩みを吐き出したり愚痴を話したりする事と同じではない。むしろそれはメンタル安定の為に行うべきことだと思う。そこではなく解決してもらおうとするという所がポイントだと分かってもらいたい。つまりいつかは自分自身で解決をしなくてはならない時がくるので時には問題に向き合う事も必要であると思っている。
だが最近気になるニュースをみてこの考えが変わりつつある。それは退職代行の利用者率が2021年では16.3%だったのが2024年では23.3%に上がっているというニュースだ。ちなみに利用理由は 一位:引き止められそうだから(40%) 二位:自分から言い出すことが出来ない(32.%) 三位:退職を伝えた後にトラブルになりそうだから だそうだ。私が知らないだけで第三者に解決してもらう人たちは沢山いたのだ。もちろんパワハラを受けているような人はどんどん使うべきだと思う。もう関わらない人たちなのだから効率的で良い方法だと思う。ただ個人的には自分で退職を伝えるのも大事な側面もあるのではという気持ちも持ってしまう。しかしこの普及率の上昇は時代の変化並びに価値観の移行を明確に表しているとも思う。つまり私の今の考えは将来的に時代遅れのおじさんの小言になり、2者間でヒューマンエラーがあった時は当事者ではなく第三者が介入し解決をする、という価値観が主流になるのかもしれないという事だ。だから実はガーディアンとして子どもを守っている人たちはもしかしたら時代をさきがけしているのかも知れない。(恐らく意図的ではなく自分の感情の着地点としてとっている行動に過ぎないと思うが。)
しかしそうなると難しいのは、本人にはとても価値があり為になることだとしてもガーディアンの価値観で勝手に届く前に切り捨ててしまうという悲劇が起きてしまう事だ。ここで冒頭の私の母のセリフに戻る。あの言葉は一見口が悪く、愛情がないような言葉に聞こえる。実際に私も幼心に傷つくこともあった。しかしこの言葉が私を助けてくれたことがある。
それは私が20歳の頃の話だ。私の母はよく言えば正義感にあふれており、悪く言えば頑固である。そんな母に育てられ私は人の命を救いたいと想い公務員の公安職に高卒で就職した。今思えば母からもらった正義感をいいとこどりして都合のいいように作り上げたエゴ満載の想いだったと感じる。そのため当然職場の雰囲気に馴染む努力をすることが出来なかった。働く意味を見出せずに日々を過ごしていた。そんな日々の中、自分にとって衝撃的な出来事もあり(この出来事はまたのブログで・・・)退職を決めた。退職前、一か月ぐらいの有給消化中はそれなりに病んでいたと思う。 カーテンは閉め切り日を浴びる事を拒否し、人生で初めての昼夜逆転をし、気付けばロープをスマホで調べ、買えない自分に落ち込んだ。そんな日々を過ごし、一歩手前に来た時ある考えが浮かんだ。
『どうせ死ぬんならやりたいことやって死のう』
その時突然自分を一番に大事にするための考えが出てきた。でも理由が分からなかった。ただそう思えてから一気にこれからの人生にワクワクしたことは鮮明に覚えている。そこからどうせなら精神で生きてきて今に至る。今になり考えると、母から幼少期に言われていた冒頭のあの言葉が、自分を大事にするという芽を育ててくれていたのだと思う。この芽がなければ私は自分を責めるしか選択肢がなかった。
このようにどんな言葉が人を助け支えるか分からない。分からないというより本人にしか言われた言葉の価値は決められないのではないかと思う。再度言うが母の言葉はいっけん口が悪く、愛情がないように感じる。私を傷つけまいと目を光らせるガーディアンが私に付いてくれていたら、届く前に切り捨てられていたと思う。しかし今私は母にありがとうを伝えたいと思えている。
ガーディアンは主流になりつつあるけど私のような経験をする人もいる。教育って難しいですね。何百年と子どもを育てることは続いているのに答えが見つからないことだらけです。もしかしたら永遠に解決しないのかも。そう考えると子どもの事で悩んでいるだけですでに教育は出来ているのかも知れないですね。ではまた次のブログで…
野﨑陽平
